君たちには無限の可能性がある、か?
君たちには無限の可能性がある、か?
今日は、ひとり言を言わせてください。
今日14日は成人式で、中日新聞のコラムにはこうあります(8行)。
「君たちには無限の可能性がある」-。成人の日である。新成人に日本中でこの言葉がかけられているかもしれない。
門出を祝う日に水を差すつもりは毛頭ないが、脚本家の山田太一さんはこの「無限の可能性がある」が苦手だそうだ。「大人が若者を無責任に励ましているようで本当にいやな言葉だと思います」とまでおっしゃる。
第一にリアリティーがないという。(中略)その言葉は失敗した人に向かって、無限の可能性があったのに「その分の努力が足りなかった」というのと同じではないかとおっしゃる。
特別というわけではないが、山田太一は好きな脚本家で、テレビドラマで何度泣かされたかわからないし、ある機会があるといつも思い出す彼の言葉もある。
「君たちは若いから無限の可能性がある」「君たちはなんでもできる時間がある」
僕も、この言葉にひっかかりを感じていて、わかっている人はわかっている、とほっとした。
だいたい市長さんかどんな人かわからないが、その年齢までがんばったってせいぜい市長じゃん。
成人した人たちにとって、市長なんておっさんかじいさんというイメージではないのだろうか。
オリンピックで金メダルをとったとか、ノーベル賞をとったとか、レコード大賞をとったとかではない。
無限の可能性と言ったって説得力がない。
さらに、これを言った市長さんも自分の子どもには
「宿題やったか」「高校(大学)どこ行くんだ?」「就職できなかったらどうするんだ?」
なんて言っていたに違いない。
その子どもも「がんばったんだけどね、・・・」ということはいろいろあったに違いない。
しかし、なかなか山田太一のようにはここまではっきり言えないし、もしかしたら使ったこともあったかもしれない。自分もいい加減なもんだ。
ともかく、猫にはなれない。