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裁判員制度について話していて

裁判員制度について話していて

裁判員制度について、先日中学校3年生と学びました。

(ほとんど)誰もやりたくないけどやらないといけない、断れないのが裁判員。
たいていの人は、殺人事件などの刑事裁判なんて、身近にするのは嫌。ましてや死刑にするか無期懲役にするか、などといった話を真剣にして、判決に加わるなんてとんでもないですね。

中学生に話してもやはりそんな反応です。
思い出すと、数年前、裁判員について何も知らなかった高校生に話したら、「なんでやんなきゃいけないのぉー?????」と大騒ぎになったこともありました。
彼女はとっても感受性が豊かで表現がストレートでした。

いろいろな議論があるのは知っていますが、もうこの制度を始めて10年になりますから、やめることもないんでしょうね。定着したんでしょう。
できれば一生に一回も裁判とは関わりたくないと多くの日本人が考えているのに、何にも悪いことしていないのに、裁判と関係しないといけないなんて、なかなか納得が行きません。
しかも裁判員が入るのは三審制の第一審だけですから、裁判員たちが死刑か無期懲役かどんなに真剣に考えても、控訴上告されればプロの裁判官だけで判決が下されることになります。

そう考えると、裁判員制度の本質は、やはり裁判官が裁判をするのであって、そこは変わらず、むしろ一般の人を裁判に巻き込むこと、そのことではないかと思えてきます。
司法改革のために、一般社会の風を入れたい、というのがその理由だったと記憶しています。

何度も教えているのに、今回授業をしていて、裁判員制度にもうひとつ別の意味があることを感じました。

それは、自分も社会を構成している一員であることを実感することです。
そんなことは当たり前だと思うかもしれません。人が集まって社会ができているんですから。
しかも、自由主義の体制であっても、私たちみんな全く自由というわけではありませんね。
子どもであっても消費税をとられる、免許を取ると警察に追いかけられて罰金を払わされる、などなど国家権力と関わらないで生きていくわけには行きません。

ただこれらと裁判員制度が決定的に違うのは、欲しいものを買ったり行きたいところに行こうとしたり、そういうことを何にもしないのに、やらなきゃいけないということ、それと「取られる」というタイプではなく、「働いて?奉仕して?貢献する」というタイプということです。
とんでもなくしっかりした時間と労力をつぎ込まなければなりません。しかも命が関わるかもしれないから真剣です。

裁判員制度は、社会の構成員は自分のことだけやっていればいい、ということでは決してない、ということを示しています。
自分の身は自分の自由になるはずなのに、くじで裁判員になってしまったら裁判所に行かないといけません。悪いことをした他人のことを一生懸命考えないといけません。

自由主義社会ですが、まったく不自由ですね。でも、そうやって一人一人が社会を支えているという自覚を持てる、ということでもあります。

これは、裁判員制度のメリットなのかもしれません。

中学生にとってこの事実が、重過ぎるかどうか、それは別問題です。ちょっと重過ぎるように感じますね。

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